■第207回行事・アーカイヴス(2011年2月)

熊野古道「紀伊路」Ⅱ・紀伊から伊太祈曽まで

大阪天満橋から続く熊野古道「紀伊路」は山中渓を過ぎ、雄ノ山峠で和泉山脈を越え、「泉州」から「紀州」に入ります。今回はJR紀伊駅を出発し、紀州に入って二番目の王子「川辺王子」から紀ノ川を渡り、矢田峠を越えて、前回の出発地・伊太祈曽まで歩きます。

 コース:JR紀伊駅~川辺王子~中村王子~力侍神社~川辺橋~布施屋渡し場跡~JR布施屋駅~川端王子~旧中筋家住宅~和佐王子~矢田峠~平緒王子~和歌山電鉄・伊太祈曽駅 (約12.5Km)

 【コース図(赤線):国土地理院発行125000地形図「淡輪」・「岩出」・「丸栖」使用(図上の左クリックにより拡大)】         

  紀伊_伊太紀曾25000淡輪岩出丸栖②

熊野詣

延喜7年(907)、宇多上皇に始まる熊野御幸は、花山法皇、院政期の平安末期~鎌倉初期に最盛となり、白河上皇は在位44年で九度詣で、応徳3年(1086)から後鳥羽上皇時代の承久3年(1221)までの136年間に延べ百度に及びました。因みに鳥羽上皇は在院28年に二十一度、後白河上皇・在院34年に三十四度、後鳥羽上皇在院24年に二十八度、後嵯峨上皇は二度、亀山上皇は一度でした。

・熊野御幸の出立点は旧「鳥羽離宮」(城南宮)でして、鳥羽離宮御殿の「精進屋」で「潔斎」(厳しい衣食住のもの忌み)に始まりました。江戸時代は、伏見から三十石船に乗り、下りは夜行、上りは一日をかけました。

川辺王子   (和歌山市川辺字稲井)

・八王子社として祀られており、建仁元年(1201)の後鳥羽上皇熊野詣に随行した藤原定家の旅行日記『御幸記』の十月八日の頃には「次に川辺王子に参る」と記されていますが、川辺王子の位置については、数地点の考証があり、この付近では参詣道筋が時代によって変わり、また王子社後身の神社が後に移転したためと考えられます(平成5年8月2日・和歌山市教育委員会)。

川辺王子跡②川辺王子跡:八王子社と合祀

・藤原定家は熊野詣の折に、『次で昼養(はんざき)の仮屋に入る 所從等沙汰無し 其所甚だ荒る 此所において非時の水垢離(こり)あり御幸を待つに甚だ遅し 忠信少将参会し小時先ず王子吐前に参る・・』(後鳥羽上皇熊野御幸記:藤原定家日記「明月記」より後人が抄録)と書いているように、渡河前に水垢離をとったようです。

中村王子

水田の端に市教育委員会の説明盤のみあります。地名「楠本」の古名が「中村」と伝わるために王子跡とされています。

中村王子跡説明盤②中村王子社跡説明盤

力侍(りきし)神社   (和歌山市川辺字稲井)

・元、天手力男命(あめのたちからおのみこと)を祭神とし、その名前も手力男に由来しており、左側の社殿が本殿で、右側が摂社(合祀されて客分となった神社)八王子の社殿です。

・元、神波に(現社地の北西約700m)にあり、その後、上野(現社地の北西約1km)の八王子社境内に移り、更に寛永3年(1626)に両社ともにこの地に移されたと伝わります。

力侍神社力侍神社参道

・社殿は流造、一間社、檜皮葺きで正面と両側面には緑をめぐらし、擬宝珠高欄をおき、背面の見切に脇障子を構えている。身舎正面には引違いの格子戸を入れ、側面と背面には板張りの壁とする通常の形式です。
両社殿とも建立年代を示す史料はありませんが、各部分の様式や技法からみて16世紀末頃に建立されたものと考えられています。木鼻やかえる股などの彫刻も優れており、全体に建立の形態が良く保たれ、和歌山県内における桃山時代の神社建築の代表例のひとつとして貴重な資料です(平成5年3月31日・和歌山県教育委員会・和歌山市教育委員会・力侍神社)。

 川辺橋   (橋長:755.5m、車道全幅員:12m)

・昭和61年に完成した、和歌山市布施屋~川辺間の紀ノ川に架かる橋で、県道64号線・和歌山貝塚線が通り、和歌山県内で一番長い橋です。

川辺橋紀ノ川 【川辺橋】 

布施屋(ほしや)渡し場

・当初は川辺から吐前へ川渡しがあったが、後になって川辺から布施屋へ渡って吐前王子へ向かった。昭和30年ごろまでこの「川渡し」は使われていたようです。「布施屋」とは旅人に金品を布施として与えた屋があったところからよばれたようです。

 布施屋の渡し跡布施屋渡し場跡付近

吐前王子(はんざきうおうじ)              

吐前王子跡 

【吐前王子跡・説明盤】                       

・「吐前」は「那賀郡埴崎」として「倭名類聚抄」*に記載のある古い地名で、建仁年間(1201~04年)の後鳥羽上皇御幸の時、「昼養」(はんざき⇒吐前)に仮御所を設けた跡があり、川辺橋付近には、既に渡し場があったようです。

 [*承平4年(934)頃に成立した、醍醐天皇皇女・勤子内親王の命により源順(したごう)が撰進した、日本初の分類別漢和辞書]  

 川端王子

・王子社の後身である王子神社が長く所在したが、明治43年に高積神社へ合祀され、そこまでの距離が遠くて不便なので旧王子社跡に遙拝所として建てられた祠が今の祠で、幕末に編纂された『紀伊続風土記』には、 「昔は村の西七町小栗街道にあり、今、村中に移す」と記されている。「小栗街道」は熊野参詣道の別名で、これによると古くは熊野街道をここから約700mほど南西へ進んだ辺りにあったものであろう。建仁元年(1201)の後鳥羽上皇の熊野詣に随行した藤原定家の旅行記である『御幸記』には「川端王子」の名前はみえず、それ以降に設置された王子社とも考えられる。(和歌山市教育委員会)

川端王子跡川端王子跡】

中筋家住宅   (和歌山市禰宜)

・敷地の東側が「熊野古道」に面しており、江戸時代末期の「和佐組」大庄屋の屋敷構えを遺存しており、嘉永5年(1852)建築の主屋は、三階の望楼、20畳敷大広間、広い接客空間などが特徴で、紀ノ川流域随一の大規模民家です。昭和49年に主屋・表門・長屋蔵・北蔵・内蔵・御成門が国重要文化財に指定されました。平成12年から約10年間にわたって保存修理事業を行ない、平成22年から一般公開しています。

・なお、中筋家は、天正13年(1585)の羽柴秀吉による根来攻めを逃れ、根来からこの地に移ってきた文貞坊に始まるとされており、貞享四年(1687)4代目良政が禰宜村の庄屋となり、寛延三年(1750)5代目良重が和佐組の大庄屋となってから、明治初年まで6代にわたって大庄屋を務めました。現在の主屋を建てたのは8代目の良秘(よしやす・1781~1857)で、彼は紀州藩のお抱え絵師・野際白雪(1773~1849)に絵を学び、芸術・文化に造詣の深い人でした。10代良恭のときに現在の屋敷構えが整いました。(和歌山市教育委員会)

旧中筋家住宅平面図     旧中筋家住宅東面

旧中筋家住宅:熊野街道に沿った東面と平面図(図上の左クリックにより拡大)

和佐王子

和佐王子跡Ⅱ和佐王子跡】

・「坂本王子社」とも呼ばれ、建仁元年(1201)後鳥羽院「熊野御幸記」に「吐前王子」と「平緒王子」の間に「ワサ王子」とも読める王子社名が記載されていましたが、『紀伊続風土記』(天保10年[1839]刊行)によると、寛文年間(1661~73)にはすでに社殿はなくなっていたので、紀州藩が現在の緑色片岩(青石)に「和佐王子」と刻んだ顕彰碑を立てて遺跡の保存を図り、幕末頃に1間半四方の社殿が再建されました。しかしながら、明治42年高積神社に合祀されました。この記述が正しいとすれば、初代紀伊藩主徳川頼宣および二代藩主光貞の頃であり、紀州藩の学術文化施策のひとつといえるようです。(和歌山市教育委員会)

 矢田峠   (標高100m)

矢田峠Ⅱ【矢田峠】

・矢田峠で道が二股に分かれ、どちらも熊野古道のようですが、左側の道を採ります。峠には徳本上人*六字名号石・地蔵尊が建っています。南側は眺望絶佳です。

[*徳本:(とくほん、宝暦8年(1758)?~文政元年(1818)?)浄土宗の僧。俗姓は田伏氏。号は名蓮社号誉。紀伊国日高郡の出身。徳本上人、徳本行者とも呼ばれた]

 平緒(尾)王子 

・天正13年(1585)の羽柴秀吉の「紀州攻め」で衰退したといわれ、後に再建されて「平緒王子社」と呼ばれていましたが、明治時代に都麻津比賣神社に合祀されました。

  平緒王子址【平緒王子址】

  [参考文献]

1. 和歌山市教育委員会ホームページ。

2. 吉田昌生:「熊野古道ガイドブック・熊野への道」、向陽書房、1999.

【2011年2月19日実施・案内:天正美治・編集:宮﨑信隆】

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