■第205回行事・アーカイヴス(2010年12月)

★守護大名の最後の城・・観音寺城跡・・ 

●鎌倉・室町時代の江州南部の守護大名・六角氏は近江源氏佐々木氏の嫡流で、家臣との不和による「観音寺騒動」によりその権威を失墜し、信長による侵攻によりあっさり落城した。その観音寺城界隈に、往時の繁栄ぶりと江南における位置、眺望を確かめつつ、四百数十年前の歴史を辿ります。

 コースJR・安土駅~桑実寺~観音寺城跡(大夫井戸・食い違い虎口・本丸・平井門・平入り虎口)~観音正寺~教林坊~石寺楽市*~沙沙貴神社*~JR・安土駅(約11km)

【コース図(赤線):国土地理院発行1:25000地形図「八日市」

観音寺城址Ⅱ②

(図上の左クリックにより拡大)

◆桑実寺  (くわのみてら:天台宗繖山)

[創建]天智天皇の勅願により、藤原鎌足の長男・定恵(じょうえ:桑峰薬師)によって白鳳6年(678)に創建されました。(『藤氏家伝』では定恵和尚は遣唐使として遊学10有余年後、百済を経て帰国し、天暦4年(665)12月に大原(奈良県高市郡明日香村小原)の第で没したと伝わります)

桑實寺山門【山門】 

[寺名]定恵が唐から持ち帰った鍬の実をこの地の農家にて栽培し、日本で最初に養蚕を始めたことに由来します。500段ほどの石段を登ると本堂が現れますが、國重要文化財で、室町初期に建立された檜皮葺本堂(重要文化財)には、本尊・薬師寺如来、毘沙門天、不動明王が安置されています。

桑實寺本堂

【桑実寺本堂】

 [草創]天智天皇・第四皇女阿閉皇女(後の元明天皇)の病気平癒を祈願して、定恵和尚に法会を営ませたところ、琵琶湖上から薬師如来が出現し、薬師如来は、まず大白水牛の背に、次に馬(岩駒)の背に乗って、繖山の瑠璃石に降り立った、とのことです。石の表面には仏足と岩駒の蹄の跡が残り、皇女の病気が治ったので、薬師如来を本尊として祀った、とのことです(「紙本著色桑実寺縁起」:重要文化財、土佐光茂筆:天文元年(1532))。当寺には国宝「縁起絵巻」(足利義晴寄贈)があります。

[幕府との繋がり]居城・観音寺城を置いた近江守護・佐々木六角氏と係わりが深く、享禄4年(1531)、第12代将軍・足利義晴が戦乱を避け、天文3(1534)年5月から約3年間、当寺正覚院に仮幕府を開設し、細川晴元と佐々木定頼の和睦後に帰京していといます。その後、一時期荒廃しましたが、天正4年(1576)に織田信長によって保護されました。信長は第15代将軍・足利義昭を桑實寺に向かえ、義昭は正覚院を一時期陣所としました。

◆観音寺城 

本丸大手口石段②

大手口石段:昭和44年発掘調査で発堀

 [構成]「佐々木城」ともいわれ、天守構造はなく屋形二階建で、正確な曲輪の数はわかりませんが1000箇所以上あり、その多くが石垣で囲まれた日本国内屈指の大規模な山城であり、國史跡です。

[特徴]山麓に居館を設け、山上付近に戦闘・防備施設があるのが一般的ですが、本城は山麓全体に分譲地、もしくは団地のような居住性の高い曲輪が配されています。

[築造]六角氏頼が建武2年(1335)に、南朝側の北畠顕家軍に備えて篭もり(太平記)、応仁~文明年間(1467~87年)に繖山山上に築城されて完成しました。以後、近江国守護・六角氏の居城となりました。(天文2年(1533)・「馬場文書」、天文5年・「金剛輪寺文書」に、「城に石垣を積んだ」記載あり)

観音寺城址_平井丸正面虎口_石垣面生前4m高

【平井丸・正面虎口跡の整然とした石垣】

遺構]本丸、平井丸、二の丸、三の丸、池田丸、布施淡路丸、土塁、石垣、堀、門跡等が多数あり、南腹の斜面に主郭・曲輪を展開、家臣や国人領主の屋敷を配しました。この時期には先進的な総石垣造りで、5mを越える高石垣が多く、御屋形跡(山麓郭)では一辺70m超、7m高を越える石垣を前面に築いています。石材は地元産出の流紋岩質溶結凝灰岩を用いており、一部に矢穴の痕跡があります。権威づけ、政治色の強い城であり、単純な虎口*、竪堀などはなく、防御施設は貧弱とみられています。しかし、南側・石寺や居館のあった方向から攻め上ろうとすると、強固な石垣がある平井丸、池田丸があり、山裾の平地部分に部隊を展開しようとすると、支城・箕作城・長光寺城から挟撃される可能性がありました。北側・安土山の方向からは、尾根沿いに切岸と巨大な土塁をもって防衛ラインを形成され、尾根を土塁として考えていたようです。

観音寺城址_食い違い虎口跡

【本丸・「食い違い」虎口跡】

[*虎口:城の出入り口で、本丸には大手と搦手があった。敵兵に横矢を射かけるため、また見通しを悪くするため、虎口の内外の通路は曲げて造り、隠し虎口も造られた]

[廃城]永禄6年(1563)、六角氏と家臣間の不和による観音寺騒動が起こり、権威を落としました。永禄11年(1568)9月、信長が総勢約5万もの兵で、丹羽長秀・木下秀吉らを大将として支城・箕作城を先ず攻略し、義賢・義治親子は逃亡して本状は陥落しました(焼亡せず:焼け跡なし)。六角老臣の蒲生賢秀は敗北を聞くも日野城に籠もり抵抗しましたが、賢秀の妹が妻である織田家部将・神戸具盛が単身日野城に乗り込み説得して賢秀は降伏し、信長に質子(後の蒲生氏郷)を差出して信長に忠節を誓いました。

平井丸潜り門【潜り門】

繖山   (きぬがさやま・三角点432.7m)

・貴人にさしかざす衣蓋(きぬがさ)のようにふんわりとした美しい山容から名付けられました。

 ◆観音正寺 

○「繖山観音寺」ともいわれ、西國第三十二番札所の観音霊場です。戦国時代、合戦を避けて山麓へ避難し、教林坊付近の石垣にみる三十三坊にも及んだことがりました。

○寺伝では、聖徳太子がこの地に来臨された折、太子自らが千手観音の像を刻み、推古13年(605)堂塔を建立し、以来、太子が近江国に創建された12カ寺中、随一の寺院として湖東地方に勢威を振るったようです。

隅立四つ目結い紋隅立四つ目結紋:佐々木六角氏家紋 

○鎌倉・室町時代は、近江国守護職・佐々木六角氏の庇護を受けて大いに隆盛し、三十三院の塔頭を擁したとのことです。

応仁・文明の乱に際し、近江国守護職・佐々木六角氏がこの山に居城を築いたため、寺は兵乱に掛ったり、守備上の障害として山麓に移されたりするなど、一転して苦難の路を辿りました。

○永禄11年(1568)に織田信長により六角氏が滅ぼされたため、慶長2年(1597)・教林坊の宗徳法橋が再び山上に本堂を建立し、諸堂を再興したのですが、

明治15年(1882)・本堂の荒廃がひどくなったため、彦根城の欅御殿を拝領して本堂としました。しかし、平成5年5月に本堂を焼失したので、本堂、本尊は平成16年に再建されました。

観音正寺本堂          

 ◆教林坊  (石の寺)               

○推古13年(605)に聖徳太子により創建され、寺名の「教林」は太子が林の中で教えを説いたことに由来すると伝わります。境内には「太子の説法岩」と呼ばれる大きな岩と、本尊を祀る霊窟が残され、「石の寺」とも呼ばれます。

○本尊は太子自作の石仏で、難産を帝王切開によって助けたという安産守護の言い伝えがあり、その時、傍らの小川が安産の血で赤く染まったことから「赤川観音」と呼ばれ、二度詣りによる心願成就のほか、安産・子授け・子守りの観音としても信仰されています。

○江戸時代前期の葦葺き書院は、里坊建築の古様式を伝える貴重な建物で、書院西面の庭園は小堀遠州作と伝わります。「観音正寺」が創建されたときに併せて開かれた坊舎のうち唯一現存する寺院で、付近は旧坊跡が遺存しています。

教林坊Ⅱ

【紅葉の名所:教林坊境内】

◆石寺楽市   [ 第122回行事で訪問・2003年11月22日]  

○「観音正寺」の麓で、旧「観音寺城」の城下町で、近江国守護・佐々木六角氏家臣団の居館等があり集住していました。この「新市」は「楽市」で、全国で初めて開かれたもので、六角定頼から天文18年(1549)にその特権を得て、商業人口凡そ3000人を集めるほど繁栄しました。

○「上御用屋敷」跡が御舘跡に遺存しており、三方を土塁と切岸*で囲まれ、南東隅には城内で最も高く積まれた石垣があります。「犬の馬場」集落は、中世武士の嗜み「犬追物」を行った馬場があったことに由来します。他に、「下御用屋敷」、「馬場道」、「構口」などの地名(小字名)が遺存しています。

道標:「左かんおんじ・すぐえち川」・「右くさつ・右八まん長命寺」と彫られています。

*「切岸」(きりぎし):切り立った斜面を更に削り、一層急峻な崖としたところ

沙沙貴神社[第88回行事でも訪問・2001年5月12日]        

○古代・蒲生郡の豪族「沙沙貴山君」の子孫・佐々貴史が崇敬した「延喜式」式内社です。蒲生郡佐々木荘には宇多源氏佐々木経方(みちかた)が本拠を構え、両氏の同化が進み、鎌倉期以降、勢力の強い近江守護・佐々木一族が吸収しました。治承4(1180)年、源頼朝挙兵時、経方孫・秀義は4名の子と共に頼朝を支えて戦功を挙げた結果、嫡子が近江一国守護、一族が十数国の守護に任ぜられました。その結果、沙沙貴郷33村を始めとする多くの人々の信仰を集めました。

○祭神は佐佐木大明神で、一座・少彦名命(祖神・産土神) 、二座・大彦命(大毘古神:古代沙沙貴山君の祖神・四道将軍)、三座・仁徳天皇(大鷦鷯尊:沙沙貴にゆかりある祭神)、四座・宇多天皇・敦実親王:宇多源氏・佐々木源氏・近江源氏の祖神、です。

○建物は平安・鎌倉様式を継承し江戸中期に再建された茅葺きの「楼門」、東西廻廊と四国九亀藩主・京極家によって弘化5年(1848)に建築された「本殿」・「権殿」・「拝殿」など大型木造建築8棟は全て重要文化財に指定されています。境内随所に佐佐木氏(佐佐木源氏)の「隅立四ツ目結い」の定紋が見られ、全国の宇多源氏・佐佐木源氏(京極家、黒田家、三井家、佐佐木家、朽木家など220余姓)ゆかりの人たちが信仰しています。

○4月末から5月中旬にかけて「うらしま草」や、「なんじゃもんじゃ」の花が見頃となります。

 [参考文献]

1.滋賀県教育委員会編:「近江城郭探訪」、サンライズ出版、2006.  

2.全国山城サミット連絡協議会:「戦国の山城・山城の歴史と縄張を徹底ガイド」、学習研究社、2007.

3.淡海文化を育てる会編:「近江歴史回廊・近江戦国の道」、サンライズ出版、2001

【2010年12月4日催行、案内・編集:宮﨑信隆】

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