第204回行事・アーカイヴス(2010年11月)

★六甲全山縦走(Ⅴ)

六甲全山縦走の最高地点に挑戦です。ケーブルカーを利用して、高低差の少ない稜線歩きです。車道歩きも長いので車には注意して、最高地点からは有馬温泉に下ります。

コース:六甲ケーブル下駅~(ケーブル)~ケーブル山上駅~記念碑台~六甲ガーデンテラス~六甲山最高峰[931.3m]~一軒茶屋~魚屋道~神鉄・有馬温泉駅   (約10㎞)

【コース図(西側赤線):国土地理院発行125000地形図「宝塚」・「西宮」・「神戸首部」・「有馬」使用(図上の左クリックにより拡大)

204_209回六甲山地縦走ⅤⅥ② 

◆記念碑台  (標高795.6m・灘区六甲山町北六甲)

・六甲山開発の祖である英人Arthur Hesketh Groomの記念碑が立てられた高台で、サンセット・ドライブウェイなど3本のドライブウェウィが枝分かれする地点で、展望は連山中では最も視界が広く、表・裏・両六甲を楽しめ、真冬でも売店は開いており、霧氷ハイキングでの手軽なオアシスともなります。

◆神戸ゴルフカントリークラブ

・日本で最初にゴルフをプレイしたクラブです。

◆六甲ガーデンテラス   (標高890m・灘区六甲山町五介山)

・六甲山上にある展望施設、レストラン、商業施設、公園、高山植物園、オルゴール・ミュージアムなどの総称で、2003年4月にリニューアル・オープンして、園内のいたるところから神戸市街や大阪湾を見渡すことができ、阪神電鉄直営です。

◆六甲山最高峰       (標高931.3m:北区・東灘区)

六甲山系は須磨から宝塚まで東西約30km、南北約8kmの連山で、約100万年前に誕生し、ほとんどは花崗岩で出来ています。六甲山上一帯は昭和31年に瀬戸内海国立公園に編入され、六甲山系の最高峰にはその標柱と「一等三角点」があり、神戸と大阪湾を望む360度の展望が広がっています。
・六甲山は100年前までは南斜面は剥げ山で植樹を行い現在のような緑豊かな山になりましたが、第二次世界大戦後の米軍進駐時代はその軍事アンテナが設置されて付近は立入禁止でした。

 六甲山山頂三角点【六甲山・最高峰標柱・一等三角点】

◆魚屋道(ととやみち) 

・江戸初期頃から、有馬の湯へ六甲山を越えて深江浜の取れたての魚介類を運んだ道です。

魚屋道

【魚屋道(緑色:今回は尾根より北側・有馬温泉へ下りました)】

(図上の左クリックにより拡大)

 ◆有馬温泉

・「日本書紀」などに登場する、三古湯の一つ(他の2カ所は道後温泉、白浜温泉)で、「延喜式神名帳」に基づく三古湯にも含まれています(道後温泉、有馬温泉、磐城湯本温泉)。

◇発見:泉源を最初に発見したのは、大已貴命(おおなむちのみこと)と少彦名命の二柱の神で(温泉神社縁起)、二神が有馬を訪れた時、三羽の傷ついた烏が水溜りで水浴していて、数日でその傷が治っており、その水溜りが「温泉」であった・・(有馬の三羽烏)。

◇有馬温泉の存在が知られるようになったのは、第34代舒明天皇(593〜641年)、第36代孝徳天皇(596〜654年)の頃からで両天皇の行幸が契機となりました。「日本書紀」の「舒明記」には、舒明3年(631)に86日間、天皇が摂津国有馬温湯宮に立ち寄り、入浴を楽しんだ記述があり、「釈日本紀」では孝徳天皇も有馬の湯を愛され、大化3年(647)10月から大晦日まで82日間、左大臣・阿部倉梯麻呂、右大臣・蘇我石川麻呂をはじめ、要人を多数連れて滞在した記述があります。

◇行基の開創:その後、有馬温泉が徐々に衰退したのを、行基が再興しました。行基は聖武天皇(701〜756)の信任あつく、薬師如来に帰依し、如法経を書写して泉底に埋め、等身大の薬師如来像を刻み、一宇の堂を建て、そこへ尊像を納め、その後約370年の間、有馬は賑わったと伝わっています。

・平安時代には、文人、天皇、重臣たちが有馬を訪れ、清少納言も「枕草子」に「出湯は、ななくりの湯(一志の榊原温泉)、有馬の湯、那須の湯、つかさの湯(玉名)、ともに湯」と書いて高い評価がされていました。

◇中興の仁西承徳元年(1097)、「堀川天皇の承徳元年、有馬に洪水があって、人家を押し流し、温泉も壊滅し」、以後95年間の有馬はほとんど壊滅状態のまま推移したと考えられています(温泉寺縁起)。

・建久2年(1191)頃の荒廃した有馬へ、吉野・高原寺の住僧・仁西が、紀伊国・熊野権現に詣でた折の夢のお告げで遣って来て、里人を集め有馬の泉源をさらえて興に成功しました。温泉寺も改修し、12の宿坊を営み、その管理は吉野からつれてきた河上、余田氏らに任せました。

◇再建の秀吉:以後、室町~戦国時代の混乱期でも入湯者は減少せず、社会の混乱も有馬の繁栄にはあまり影響なかったようです。しかし、享禄元年(1528)の大火で有馬は焼土となり、天文14年(1545)には、善福寺後方の落葉山に城を構える三好宗三政長に対して、三木城主・別所豊後守が攻めて、有馬は大打撃を被り、更に天正4年(1576)にも大火があり有馬は壊滅的状況となりました。

・秀吉の事蹟は、慶長2年(1597)に始めた、前年の「慶長伏見地震」による温泉の熱湯化に対する大規模改修工事でした。この工事以来350年間、有馬町(明治29年までは湯山町)は一度も泉源の改修工事を行いませんでした。秀吉は湧出した温泉に湯山御殿を造り、工事完成の慶長3年5月に入湯の予定でしたが、暴風雨のため中止となり、その後まもなく病床に伏し、その成果をみることなく同年8月18日に没しました。

有馬温泉街頭【有馬温泉・街頭】

江戸時代を経て:江戸時代に入って繁栄が続き、幕府直轄領となりましたが、各旅館内に内湯はなく、町内に元湯がひとつあるだけで、湯治客はすべてこの元湯に出かけていました。温泉湧出量も多くなく、泉源の改修工事により温泉としての知名度が高まって訪れる人は増加したものの、元湯は南北に七間、東西に三間ほどの建物1棟があったのみで、設置されていた浴槽も、南北に2丈余り、東西1丈余りで中央に板仕切りがあり、一辺一丈の小さな正方形でした。その南側は「一の湯」北側は「二の湯」と呼ばれ、深さはいずれも三尺七、八寸であったとのことです。

・仁西が開いた12の坊は、秀吉が大改修工事をしたころには20坊に増えて旅館として機能しており、一の湯には十坊、二の湯に十坊がそれぞれ入るように決められていました。各坊に2人の湯女が配属され、湯治客の増加にあわせて、坊の下に「小宿」と称する宿舎が作られ、宿泊施設も充実していきました。

・江戸時代後半には、庶民も社寺参詣や湯治に出かけるようになり、それを助けたのが道標で、有馬温泉にも道標がいくつか現存しています。(有馬温泉観光協会公式サイトより)

【2010年11月6日実施・案内:関谷正次朗・編集:宮﨑信隆】

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