■第203回行事・アーカイヴス(2010年10月)

山ノ辺の道

人の心を神話とロマンの世界へ誘う日本最古の道を歩いてみよう

コース:JR/近鉄・桜井駅~佛教伝来地碑~海石榴市観音~平等寺~大神神社~狭井神社~大美和の杜展望台~月山記念館(日本刀鍛錬道場)~川端康成歌碑~檜原神社~相撲神社~景行天皇陵~櫛山古墳~崇神天皇陵~黒塚古墳~JR柳本駅   (約8㎞)

【コース図(赤線):国土地理院発行125000地形図「桜井」使用(図上の左クリックにより拡大) 

203回25000桜井_山ノ辺道②

海石榴市跡・海石榴市観音 

・飛鳥時代に金屋付近には、古代三市の一つの「海柘榴市」が、現・観音堂付近にあったと考えられています。ここは三輪・石上を経て奈良(平城京)への「山ノ辺ノ道」、「初瀬街道」、飛鳥への「磐余ノ道」、河内・和泉からの「竹ノ内街道」が集まり、難波からの舟運もあって大いに賑いました。春秋には若い男女が集まり「歌垣」をつくり、互いに歌を詠み交わしたようです。

・現在の観音堂には、右側に十一面観音立像、左側に聖観音菩薩立像の二体の石仏が安置され、元亀(1571~72年)の銘があります。

・初瀬谷から奈良盆地に流れ込む初瀬川(大和川)は、三輪山の山麓沿いを流れ、磯城郡川西町で佐保川と合流していますが、『日本書紀』推古16年(608)条に難波より大和川を遡上してきた隋使・裴世清一行を「海石榴市『衢』」(ちまた)で歓迎を受け、飛鳥の小墾田宮に至ったごとく,水陸交通の要衝でした。

・『萬葉集』には「海石榴市」の「八十衢」(やそのちまた)とあり,『日本書紀』武烈即位前紀にも「海柘榴市巷」が出ており、比定地としては横大路と山ノ辺ノ道の交点付近の桜井市金屋の集落付近,横大路と上ッ道の交点近くの同市三輪字上市~金屋字上市口付近が考えられていますが,金屋から上市への変遷なども考えられます。

海石榴市観音Ⅱ②海石榴市観音 

佛教伝来之地(碑)   (桜井市金屋)

・初瀬川畔一帯は,磯城瑞籬宮,磯城嶋金刺宮、海柘榴市などの史跡を残し,古代大和朝廷の中心地で、難波津から大和川を遡行してきた舟運の終着地であり、大和朝廷と交渉をもつ国々の使節が発着する都の外港として重要な役割を果たしました。
・「欽明天皇の十三年冬十月,百済の聖明王は西部姫氏達率怒唎斯致契等を遣して釈迦佛金銅像一躯,幡蓋若干,経論若干巻を献」(『日本書紀』)った仏教伝来の百済使節もこの港に上陸し,すぐ南方の磯城嶋金刺宮に向かったとされていますので、この辺りは仏教が初めて日本に送られてきた記念すべき地であるとのことです。「推古天皇十六年,遣隋使小野妹子が隋使・裴世清を伴って帰国し飛鳥の京に入るとき,飾り馬七十五頭を遣して海柘榴市の路上で額田部比羅夫に迎えさせた」と記されているのもこの地でした。

平等寺 (桜井市三輪・曹洞宗三輪山)

・嘉禎2年(1236)に慶圓により三輪神社の傍らに真言灌頂の道場が建立され(「弥勒如来感応抄草」)、鎌倉末期から明治の廃仏毀釈までは三輪明神の「別当寺」であり、興福寺が御用銭を課していることから同寺の末寺でもありました。同時に、修験道を伝えていたことから醍醐寺との関係も保持しており、内部に「学衆」(興福寺大乗院)と「禅衆」(醍醐寺三宝院)という二つの僧侶集団が作られて、共存関係あるいは争いがあったようです(「大乗院寺社雑事記」)。

・江戸時代には、興福寺の支配を離れ、真言宗の寺院となりつつも修験道も伝え、朱印地石高は80石でした。伽藍配置は、江戸時代の絵図では三輪明神南方に慶円上人開山堂のほか、行者堂・御影堂・本堂・一切経堂など、複数の堂舎が存在していたようです。

・明治元年の神仏分離の太政官布告により、明治3年には、平等寺は三輪神社の神官が管理することになり、堂舎は破壊され、平等寺は廃止となりましたが、昭和62年に漸く鐘楼、本堂が再建され、平成16年に二重塔(釈迦堂)が建立され、本尊は釈迦如来真像とされました。

三輪山平等寺②平等寺 

大神神社 

・日本で最古の神社の1つとされており、の「三輪山そのものを神体として、本殿をもたず拝殿から三輪山自体を神体として仰ぎ見る古神道(原始神道)の形態を残しています。拝殿奥の「三つ鳥居」は、明神鳥居3基を1基に組み合わせた特異な形式です。例年11月14日に行われる「醸造安全祈願祭」(酒まつり)で拝殿に「杉玉」が吊るされることが各地の造り酒屋へと伝わったようです。

・全国各地に分祀され、『延喜式神名帳』(『延喜式』巻九・十の神名式)にも記述されており、播磨・美作・備前・備中・周防に多いですが、吉備国を征服する時に大和政権によって分祀されたものと考えられています。祭神は大物主大神(倭大物主櫛甕玉命)で、配神として大己貴神 (おおなむちのかみ)と少彦名神が祀られており、境内は国史跡に指定されています。

大神神社②大神神社拝殿

狭井神社 狭井坐大神荒魂神社 さいにますおおみわのあらみたまじんじゃ

・大神神社の「摂社」*の一座で、祭神は大神荒魂神(おおみわのあらみたまのかみ)・大物主神(おおものぬしのかみ)・媛蹈鞴五十鈴姫命(ひめたたらいすずひめのみこと)・勢夜多々良姫命(せやたたらひめのみこと)・事代主神(ことしろぬしのかみ)で、「延喜式神名帳」に記載されています。「薬井戸」(くすりいど)が拝殿左手にあり、ご神水が湧出しており、万病に効くとの伝承があります。

狭井神社Ⅱ②狭井神社 

*「摂社」:「摂社」はその神社の祭神と縁故の深い神を祀った神社。「末社」はそれ以外のものと区別されている。格式は本社>摂社>末社の順とされる。

 大美和の杜展望台

・遠望では大和三山をはじめ、二上山、金剛山、葛城山系が広く望むことができ、近くでは大神神社の大鳥居や桜井市内の町並みを見ることが出来ます。展望台の背景は神体山・三輪山を近くに望むことができます。

月山記念館(日本刀鍛錬道場)

・昭和40年、人間国宝・刀匠・月山貞一が『日本刀鍛錬道場』を開設し、記念館は平成7年に開館しました。人間国宝・故月山貞一氏から三男・日本刀制作部門で無形文化財の指定を受けた月山貞利氏までの作品と経歴パネルが展示されています。

玄賓庵   (桜井市茅原・真言宗醍醐派)

・桓武・嵯峨両天皇に厚い信任を得ながら、俗事を嫌い三輪山の麓に隠棲した玄賓僧都の庵と伝わり、世阿弥作と伝わる謡曲「三輪」の舞台として知られています。かつては山岳仏教の寺として三輪山の檜原谷にありましたが、明治初年の神仏分離により現在地に移されました。

玄賓庵Ⅲ玄賓庵    

川端康成歌碑   書=川端康成:「桧原神社」の「井寺池」畔

・「大和は 国の真秀ろば たたなづく 青垣 山籠れる 大和し麗し」(「古事記」ヤマトタケルの歌)

(川端康成は建碑建設場所の下見に昭和47年(1972)1月21日来所し、4月16日死去)

檜原神社 

・大神神社の「摂社」である当社は、宮中にて「同床共殿」(どうしょうきょうでん)に祀られていた、皇祖である天照大御神を崇神天皇六年に豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)に託して遷座して、「磯城神籬」(しきひもろぎ)を立て、祀られた「倭笠縫邑」(やまとかさぬいのむら)であり、大御神の遷幸後も、檜原神社として引き続き祀り、「元伊勢」の一社となっています。

・檜原神社は日原社とも称し、古来社頭の規模などは本社である大神神社に同じく、社殿がなく「三ツ鳥居」を有していることが室町時代以来の古図に明らかです。

・祭神は、天照大神若御魂神・伊弉諾尊・伊弉册尊で、境内に豊鍬入姫命を祀る豊鍬入姫宮(大神神社末社)もあり、西方の桜井市箸中にある「ホケノ山古墳」(内行花文鏡出土・社蔵)を豊鍬入姫命の墳墓とする伝承もあります。

檜原神社【「三ツ鳥居」のある檜原神社】 

◇かつて、素麺製造に欠かせなかった水車は、三輪山を北に限る巻向川と南に限る初瀬川に設置され、巻向川の水車設置地域は「車谷」と呼ばれ、その200mほど南に檜原神社が鎮座しています。

相撲神社

・野見宿禰と當麻蹶速(たいまのけはや)が「カタケヤシの地」で初めて天覧相撲(第11代垂仁天皇)を行ったところで、穴師坐兵主の鳥居の近くにあり、祭神は野見宿禰と当麻蹴速です。

景行天皇陵

渋谷向山古墳山邊之道上陵・やまのべのみちのえのみささぎ・天理市渋谷町

・宮内庁により景行天王陵に指定されており、築造年代は現在の崇神天皇陵である「行燈山古墳」より少し遅れた4世紀後半と推定されている前方後円墳です。

・全長310m・前方部幅170m・高さ23m・後円部径168m・高さ23mで、墳丘は東西方向に主軸をおき、後円部は正円形で三段築成され、前方部も三段で築かれています。後円部頂上は平坦な円形で、前方部の頂上も平坦であり、長い台形で、前方部は撥形をしていません。前方部幅は後円部の直径にほぼ等しく、後円部の前方部に対する比率はおよそ1:1.1です。幅約10mの周濠は盾形で、墳丘両側の谷を堰き止めて作った階段状の周濠であり、周濠への湛水のため渡土堤が設置されています。 現存の周濠・渡土堤は幕末の修陵工事で改変されていますが、渡土堤の一部は造営当初のものと判明しています。

P1050432渋谷向山古墳  【渋谷向山古墳:周濠・渡土堤】       ・本墳は丘陵地形上に長大な墳丘を築造されているが、前方部・後円部の各段がほぼ水平に通っていて、前方部上面の広いテラスの続く先に、後円部最上段が築かれていて、古墳側面観全体の中で後円部最上段[埋葬部]の重要性が表現されていると考えられています。

古墳_側面前方部観_左下_五社神古墳

【前期古墳平行投影圖:側面・前方部(最下端・五社神古墳):豊田原図(図上の左クリックにより拡大)

崇神天皇陵(行燈山古墳・山辺道匂岡上陵・天理市柳本町) 

・古墳時代前期の前方後円墳で、帆立貝形古墳にも分類される、墳丘は全長242m、正円形で三段築成の後円部は直径158m、高さ23mあります。後円部頂上は平坦な円形で、前方部正面は少し弧状をして、頂上はくびれ部に向かって少しずつ低く坂のように整形されています。後円部直径と前方部直径比は、1:0.8 程度です。左右対称の盾形と考えられている周濠は、幕末の修陵時に溜池形に変えられましたが、後円部南側と前方部にある渡土堤は築造

行燈山古墳崇神天皇陵Ⅰ②行燈山古墳他2古墳タテ

当初から設けられていたと推定されています。【行燈山古墳と墳丘図(千賀原図)

◆櫛山古墳 

・「行燈山古墳」の東方に、墳丘長150m、中円部径90m、西側(行燈山古墳側)前方部幅70m、東側後方部幅65mで、前方部の開かない前方後円墳の後円部側に方形部を付け足した墳形の「双方中円墳」です。

築造は前期前半と考えられています。古市古墳群などの中期古墳の「造り出し」構造の原点とも考えられていて、祭祀時の船着場になったかもしれません。楕円筒埴輪(尖った三角の連続する口縁部をもつ)が前方部北側の裾から纏まって出土しました。

・昭和23~24年の発掘調査で、中円部「竪穴式石室」内に長持形石棺らしき組合せ石棺材があり、室中央を掘込んで据置かれていたようですが、埋葬されていたか否かは不明です。底部に水銀朱層、後方部に排水施設と白礫敷き施設がみられ、鍬形石・車輪石・石釧・その模倣土製品(小型土器・土師器)が出土しています。土師器高坏は坏部と脚部が分離していて、破壊後埋納されたのか、埋納後壊れたか不明です。

櫛山古墳【櫛山古墳墳丘図:千賀原図】 

黒塚古墳       (天理市柳本町)

・奈良盆地の東南部に位置する「大和古墳群」に属し、台地の縁辺部に立地して、前期(3世紀末頃)に築造されたと推定されている前方後円墳で、平成9~10年に、奈良県立橿原考古学研究所が行った第3次発掘調査で、「三角縁神獣鏡」33面と「画文帯神獣鏡」1面が副葬当時に近い状態で発見されました。

・全長約130m・後円部径約72m・高さ約11m・前方部長約48m・同高さ約6mあり、後円部三段、前方部二段の築成で、前方部と後円部の落差が大きく、前方部正面に少し弧状の膨らみが見らる「撥形」で(前期古墳の特徴)、周濠はありますが、葺石や埴輪は確認されていません。

・棺内には被葬者の頭のところに「画文帯神獣鏡」と両側に刀・剣各1振りをおき、棺外に東壁側15面、西壁側17面の「三角縁神獣鏡」を内側に向けて、木棺と壁のわずかな間に立てられていました。「三角縁神獣鏡」のこの扱い方により、これらの鏡が葬儀用に作成されたもので価値のあるものでは無い(つまり小林行雄による大和政権の配布説を否定)との見解を補強したとの説も出ています。鏡の他に刀剣類や鉄鏃・小札(こざね)・用途不明の鉄製品などが配置されていました。玉類や腕装飾品類は検出されていません。

・後円部の埋葬施設は「竪穴式石室」で、内法長約8.3m、北小口幅0.9m、高さ約1.7mで、二上山麓の春日山と芝山の板石を「持ち送り」にに積んで、合掌造様式の天井が作り出されています。石室内では、粘土棺床が設けられ、断面半円形の全長1m以上の「刳抜式木棺」が納められていました。木棺には中央部の長さ2.8m範囲のみ水銀朱を施し、両端はベンガラ赤色で塗られていたようです。水銀朱付近に被葬者は安置されていたものと推定され、「竪穴式石室」は、ほぼ真北「枕」であり、ヤマト王権では被葬者の真北「枕」埋葬の風習を推量する説が出ています。

OLYMPUS DIGITAL CAMERA     【黒塚古墳】                        OLYMPUS DIGITAL CAMERA 【黒塚古墳・石室レプリカ】  

黒塚古墳 拡大【黒塚古墳墳丘図:千賀原図】 

【参考文献】

1.筒井和子編:「長柄・柳本の遺跡」、友史会遺跡地図(12)、2010

2.千賀  久:「柳本古墳群」、友史會會報(582)、2010

3.千賀 久:「オオヤマトの古墳」、友史會會報(414)、1998

4.豊岡卓之:「古墳の発生を歩く」、友史會會報(347)、1991

【2010年10月16日実施・案内:鈴木美和子(副会長)・編集:宮崎信隆(副会長)】

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