■第202回行事・アーカイヴス(2010年9月)

★環濠自治都市・平野郷

●かつて、堺と双璧をなす環濠自治都市であった「平野郷」は、「大坂夏の陣」以降は戦争にも遭わず、昔の町割りをそのままに遺した環濠都市の面影を辿りました。

◆平野郷 ◆杭全神社 ◆平野十三口

コース:JR平野駅~杭全神社・環濠跡~平野川~含翆堂跡~川骨池口[平野十三口跡]・地蔵堂~市ノ口・地蔵堂~お渡り筋(高野街道)~刀資料館~映像資料館~泥堂口~末吉家~坂上廣野麿邸跡~大念仏寺~長宝寺~馬場口~小馬場口~西脇口~平野プロムナード~堺口~流口~全興寺~平野公園~奥田邸~JR加美駅 (約5㎞)

コース図:国土地理院発行1:25000地形図大阪東南部」使用(図上の左クリックにより拡大)】
202回平野郷25000大阪東南部

◆大阪市「平野区」の大略
○かつての摂津国・平野・喜連と河内国・加美・瓜破・長吉の5地区から成り立っていまして、人口は約20万人で大阪市の「区」としては最大です。区内には高層集合住宅も多く建設されていますが、第二次世界大戦ではその戦火を免れたため、昔ながらの街並みや環濠都市の面影を残しています。

◆平野郷の歴史

○上古に住んだ日本武尊の孫・杙俣(くまた)長日子王に因み、「くまたの荘」と称されました。その後、帰化人が多く移住して、赤留比賣(あかるひめ)命神社[現・三十歩神社]を祭祀しました。

○「平野郷」の起こりは、平安時代に蝦夷征伐した征夷大将軍・坂上田村麻呂と次男・廣野麿が平成上皇の「平城還都」(薬子の変)を阻んだ功績により、『くまたの地』を嵯峨天皇より賜り、一族と共に開墾して荘園とし、「郷」のはじまりとなりました。以後、廣野麿の子孫が永く当地を掌り、「くまた」が「廣野荘」と称され、更に「平野」に転訛したようです。

○廣野麿の荘園[平野庄]は摂関家・藤原頼通を通じて宇治・平等院へ寄進され、その後の約500年間は平等院領であった。寺領の特権「不輸・不入の権」(田租非課税・役人不干渉)により、平安期~室町期には国司・守護・地頭の介入を受けず、坂上宗家が「惣年寄」を務め、自治を保っていました。

*「惣/惣村」:荘園内の中心部に集落を形成して荘民の結束を固め、集落の周囲を田畑で囲むような自治体

○「平野庄」は坂上分家筋七名家(野堂[後、末吉]・則光[後、井上]・成安・利則[後、三上]・利國[後、土橋]・安國[後、辻葩]・安宗[後、徳成⇒西村])による七番頭合議制を採り、野堂、流、市、背戸口、西脇、泥堂、馬場の七字に分けて、各一字を治め、かつ宗家を補佐しました。

【平野郷七字(七字を七色で示す):平野郷繪圖(左クリックにより拡大)

平野郷絵図_浅井_七字7色

○「応仁の乱」以後、摂河泉の要衝であった「平野」も戦乱に巻き込まれたので、「郷民」は自衛手段として「郷」の周囲に二重の「壕」と「土居」を築き、13カ所の出入口に「惣門」(木戸口)を設けて、自治組織を構成しました。環濠は灌漑・洪水時の調整・平野川との接点における水運の拠点になりました。

○「郷」が栄えたのは、豊臣~徳川時代で、朱印船貿易、銀貨鋳造[銀座]などで活躍し、最初の銀座(伏見)の頭取は七名家の末吉勘兵衛利方でした。秀吉正室・おねの領地でもあって益々栄えましたが、「大坂の陣」ではかなり焼失し、元和2年(1616)の幕府の命に依り、末吉家の碁盤の目道路の整備による「町割り」造りが進みました。

○宝暦13年(1763)制作の絵地図「攝州平野大繪圖」では「郷」の外側に二重の「環濠」が廻らされていることがわかります。ルイス・フロイスもこのことを記載して本国に送っているようです。

○「平野郷」の「環濠」は、昭和初期までかなり遺存していましたが、13カ所の「惣門」は明治13年のコレラの流行の2年後に撤去され、「環濠」も昭和40~50年代に埋められていきました。

○「環濠」の名残としては、杭全神社東側がかつての「柏原船」船着場が公園化されたところ、その北側の「御茶池橋」付近しかありません。

○「平野郷」の「環濠」の最終構築は、織田信長による「惣年寄」への法外な「矢銭」(戦費)の要求に対する値切りに対して脅されたことへの防備として再整備されたようです。

◆攝州平野郷大繪図(杭全神社)

平野郷絵図_杭全神社

【大繪圖:『古名ノ杭全荘、廣野荘、平野荘ヲ平野郷街トイフ』(左クリックにより拡大)】平野郷絵図_杭全神社

○この大繪圖は、徳川家康が平野商人・末吉孫左衛門吉安に命じて、元和元年(1615)「大坂夏の陣」後に整備させた町割りを宝永13年(1763)に描かれたものです。「郷」には、奈良街道(西は大坂道、東は大和道)、八尾街道(西は住吉道、東は河内信貴道)、中高野道(北は玉造天満街道、南は高野道)の三道が交差していて、「惣門」(木戸口)を介して繋がっていました。

◆旧大和川・平野川・柏原船

○旧大和川付替え前は度々の洪水で稲作適地が形成されず、むしろ綿作地に適していました。

戦国時代には綿布の需要が急騰して、摂河泉でも綿花栽培が急増しました。16世紀中頃には、実綿問屋(棉実)、繰綿問屋(綿実から不純物を除去した加工品と綿糸)、綿織物問屋(綿布)と分業が成立しました。

平野郷の「筋」】  (左クリックにより拡大)

平野郷_筋②

○元和6年(1620)の旧大和川の大洪水により柏原を中心に罹災し、その復興と繁栄のために、寛永13年(1636)に「柏原船」による舟運を開始しました。船は二十石舟(米で約3t[50俵]積み・全長13.5m・最大幅2m余)で、大坂・京橋から平野川を上下して、河骨池口付近に「船溜まり」が設けられ、綿花の集配と繰綿で莫大な利益を挙げて、江戸期の「平野郷」は繁栄しました。

○大和川付替え後は、平野川へ流入する大和川の水を引き込む樋門が1カ所になってしまったため、流水量が減少し、川底の土砂の堆積とも相俟って、舟運は京橋~平野郷となりました。更に、明治22年には鉄道が湊町~柏原間で開通して、荷の運送は鉄道に移り、明治40年(1907)に舟運は終了しました。

○綿と「平野郷」の繋がりは、平野紡⇒大日本紡⇒ニチボー⇒ユニチカと続き、昭和40年代まで平野工場は存続しました。

◆『平野区の花』は「棉」の花 棉の花

 【『平野郷』東西筋・南北筋 筋絵図:北端に杭全神社、東側を平野川は北流していた(左クリックにより拡大

平野郷_筋絵図②

◆杭全神社

○貞観4年(862)、坂上廣野麿の子・当道がスサノオノミコトを氏神として祀り始め[第一殿は重文]、第二殿・第三殿は永正10年(1513)に建立されました。連歌所は宝永5年(1708)の再建です。平安時代より連歌は広がり、明治時代に途絶えた後、昭和62年に再開されました。

○境内には大樹が多く、樹齢850年以上の大楠、600年以上の大銀杏の木があります。

杭全神社本殿③【杭全神社本殿回廊】

◆平野十三口

十三口の中、泥堂口・河骨池口・市ノ口・樋尻口・出屋敷口・田畑口・流口・堺口・西脇口・田邊道西脇口・小馬場口・馬場口の十二口名が遺存しています。

河骨池口・河骨池口地蔵堂

地蔵堂は玉造、天満、守口方面に通じる河骨池口門の傍にあったもので、道路の西側は江戸~明治時代に、平野川を運航していた「柏原船」の「船入」(発着場)があった河骨池跡です。

◇市ノ口地蔵

・「市ノ口門」の傍にあったもので、大門の「市ノ口」は久宝寺、八尾、信貴山へ通じる出入口で、地蔵堂の位置は国道25号線の拡張に伴い少し移動されていますが、十三口中、最も大きな地蔵で、堂前の石灯籠に享保21年(1736)の銘があります。

市ノ口地蔵堂②【市ノ口地蔵堂】

◇泥堂口地蔵

・「泥堂口門」の傍にあったもので、奈良街道の大坂、四天王寺に通じる大門をもつ木戸口として十三口の中でも重要な出入口でした。地蔵尊に享保12年(1727)の銘が刻まれています。

OLYMPUS DIGITAL CAMERA【泥堂口地蔵】

 ◇道標・お渡り筋[中高野街道]

・杭全神社大鳥居近くの、奈良街道と中高野街道交差点近くにあります。

・寛政12年(1800)の建立で、『かうや山・大峯山上・ふぢゐ寺』と刻まれ、杭全神社は熊野権現と祇園宮を祀っていました。

◇末吉家

・平野七名家の中でも最も繁栄したのは末吉家で、豪商・末吉孫左衛門は朱印船貿易、銀座開設、豊臣時代には船場に移住して、長堀通を横切る東横堀川に自費で橋[末吉橋]を架けたり、大坂の発展に貢献しました。

◇長寳寺

・寺紋は「馬」で、「むこううま」と呼ばれており、坂上田村麿の定紋を使用していますが、坂上田村麿の娘で、桓武天皇の妃であった坂上春子姫が大同年間(806-810)に出家して開基した高野山真言宗の寺です。

長寶寺③長寳寺

爾来、坂上家の女子が住職を務めています。銅鐘は建久3年(1192)銘があり、重要文化財です。

◇黄金水

・平野は土地が低湿であったため、飲用に適さない井戸水が多かったのですが、この井戸水だけは良質で引用に適し、上水道の普及まで平野郷の「命水」でした。

◇平野公園(旧松山公園)

公園内にある「松山池」は「環濠」跡で、江戸時代から明治初期ごろは、灌漑用水として使用されていましたが、昭和3年(1928)に杭全神社所有地の三十歩神社周辺の土地を無償で使用し、平野公園が造成されたため、公園の一部となりました。

◇赤留比賣命(あかるひめのみこと)神社[俗称・三十歩神社]

・四天王寺ワッソで有名な赤留比賣命を祀っています。応永年間(1394~1428)の旱魃の折に法華経三十部を読経したところ霊験新たかであった。「耳の神」として信仰を集めました。

◇樋尻(ひのしり)口門跡・樋尻口地蔵

・平野公園内にあり、八尾久宝寺への出入口でありました。地蔵尊は延命地蔵型の丸彫り座像ですが、像高160cm、二層の台座が55cmで、全体で215cmあります。台座の文字は「十方法界」で、延命地蔵は安産と子安にも霊験があるといいいますが、この地蔵尊は目の病いにもご利益があるとか・・。
・元和元年(1615)「大坂夏の陣」で、真田幸村がこの地蔵堂に地雷を仕掛け、徳川家康を爆死の手前まで追いこんだとの伝承があります。その爆発で地蔵の首が400m西の全輿寺に飛来し、当寺では首の地蔵尊として本堂で祀っています。

樋尻口地蔵③【樋尻口地蔵】

◇出屋敷口・出屋敷口地蔵

・「田畑口」とともに、藤井寺や道明寺に通じ、また町民の辰巳墓地への参道でした。

・地蔵尊は像高60cmの丸彫り立像で、鉦(直径28cm)の銘は「堺南大川講施主ナベヤ伊兵工 江戸西村和泉守作」です。

出屋敷口地蔵【出屋敷口地蔵

◇田畑口・田畑口地蔵

・藤井寺、道明寺から南河内、大和へ通じる木戸口で、地蔵尊は丸彫り立像で温和な顔立ちで、像高82cm、子供の夜泣きに対して願をかければ功徳を施されるといわれ、直径35.5cmの鉦には「天明元辛丑年(1781)七月吉日 大坂高津北坂筋住 岸本吉久作」とあり、「摂州住吉郡平野郷田畑口 地蔵尊世話人」として油屋重次郎他9人の名が刻されています。

田畑口地蔵③【田畑口地蔵】

◇流口・流口地蔵

・大門であった木戸口から南下する道は「中高野道」と称し、喜連(きれ)、瓜破(うりわり)を経て、かって平野川の水源であった狭山池で、堺から来る「西高野道」と合流する信仰の道でした。

流口地蔵③【流口地蔵】

・この地蔵堂は流口門の傍らにあったもので、地蔵尊は丸彫りで、右足をまげてすわる延命地蔵型です。高さ70cmで台座に「十万法界」と刻されていて、鉦(直径42cm)の銘には「摂州住吉郡平野郷流町門口地蔵尊」とあり、寄進者は「同町三上馬之助正敏」、「釈妙空童女」他二人の追善のため、作者は「京室町住出羽宗昧藤原誠定作」、年代は「安永六丁酉年(1777)七月廿四日」と刻まれています。天保15年(1844)に市町住人大工柳屋利兵衛が御堂を建立しましたが、年月が経ち御堂が荒れたので昭和32年に再建されました。

◇堺口・堺口地蔵

・堺口は「西脇口」とともに、中野から鷹合を経て住吉、堺に通じる出入口でした。

・地蔵尊は丸彫り立像で、高さ1mで、直径40cmの鉦には「堀川住筑後大掾常味作 天和三美亥(1683)七月廿七日」と刻まれています。

堺口地蔵③【堺口地蔵】 

◇西脇口・西脇口地蔵

・「西脇口」(南口)門の傍らにあったもので、この木戸口より南下すると、「堺口」の住吉、堺へ通じる道と合流します。地蔵堂前の東西の道は「環濠」跡です。

・地蔵堂は「南口地蔵」とも呼ばれ、鉦(直径31cm)の銘には「摂州住吉郡平野西脇町南口地蔵講中 宝暦十四甲申年(1764)七月中旬」と刻まれています。

西脇口地蔵【西脇口地蔵

◇田邊道西脇口

・この木戸口を出て西へ行くと昔の北田辺村に達した。古道は区画整理のために存在していない。「西脇口」と混同されないように名づけられました。

・地元では「田辺地蔵」と呼ばれ、「環濠」があった頃は地蔵堂は濠を背に東向きに建っていましたが、昭和初期、濠を埋め道路を西へ伸長する際に南の道へ移され北向となりました。地蔵尊は丸彫り立像の高さ75cmで、鉦は2つあり、小さい方(直径21.5cm)に「京大仏師西村左近宗春」の銘があります。

田辺地蔵②③【田辺地蔵】

◇小馬場口・小馬場口地蔵

・ここは、大念仏寺の南側の道を西へ抜け出る木戸口で、田辺、かつて平野郷の散郷であった今在家(今川)、新在家(杭全)などとの出入口であり、大念仏寺への参詣道でもありました。地蔵堂は小馬場口門の傍らにあったもので、地蔵尊は丸彫り立像で高さ70cmです。

◇馬場口・馬場口地蔵

・JR平野駅を出て南に直進すると馬場口に至り、大門の木戸口は泥堂口とともに奈良街道の大阪、天王寺方面に接続していて、大阪方面から大念仏寺への参詣口でもありました。

地蔵堂は馬場口門の傍らにあったもので、地蔵尊は高さ133cmの丸彫り立像で、右の手に鉄の錫杖を持っています。

馬場口地蔵③【馬場口地蔵】

 ◆含翆堂

○平野七名家の土橋直友ら5同志におり、享保2年(1717)に創設された、大坂発の民間学問所で、『入学の節は貴賤を選ばず、子弟の杯あるべし』と誰でも席に連なれた。経書購読・国学・基金積立[飢饉に備えて]、窮民救済等社会貢献を行い、明治5年まで続いた。

◆全興寺  (せんこうじ・高野山真言宗・野中山)

・聖徳太子が薬師堂を創建して、人々が集住してきた、との伝承があります。坂上田村麻呂の尊信も篤かったとのことです。本堂は元和元年(1615)「大阪夏の陣」で一部を焼失しましたが、寛文元年(1661)に再建されました。

◆大念佛寺  (融通念佛宗・総本山)

・大治2年(1127)、聖徳太子信仰の厚かった良忍上人が四天王寺に立ち寄った際、太子から夢のお告げを受け、鳥羽上皇の勅願により平野に根本道場として創建したのが始まりで、平安末期以降広まった念仏信仰の先駆けとなり、国産念仏門の最初の宗派で日本最初の念仏道場といわれています。その後、火災などで荒廃しましたが、菅原道真の直筆と伝わる国宝「毛詩鄭箋」残巻などが遺存しています。元禄期(1700年前後)に本山として体裁が整い、現在に至っており、本堂は大阪府で最大の木造建築物です。

大念仏寺平野【大念仏寺】

 ◆奥田邸

河内国鞍作村の時代に、代々鞍作(くらつくり)の庄屋を務めていた奥田家は、付近10ヶ村の庄屋総代として苗字帯刀が許された豪農だったらしく、遺存する屋敷は、江戸時代初期の建造で国指定重要文化財です。約3300㎡(1000坪)の広大な敷地に、主屋、表門、乾蔵、旧綿蔵、納屋、米蔵2棟などが並ぶが、萱葺き屋根の主屋は最も古く、家康の軍勢が大坂城を攻める際、ここで食事を摂ったという逸話も伝承されています。

奥田邸平野【奥田邸】

   【参考文献】

1.村田隆志:「平野郷小史」、杭全神社、2005

【2010年9月26日実施・案内:浅井正穀・編集:宮﨑信隆】

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