■第192回・設立15周年記念行事[街コース]・アーカイヴス(2009年11月)

★[街コース] 豊臣秀吉・その一族の京の菩提寺

 ●設立15周年を機に、天下泰平を目指して戦った豊臣秀吉とその関係者の目標地「京都」の東山連峰からの景観と彼らの菩提寺、即ち「山」と「街」を巡り、その「活躍」を顧みました。

 コース京阪・七条駅~豊國神社・方廣寺~六波羅蜜寺~建仁寺~安井金毘羅宮~高台寺~大谷本廟・東大谷~(円山公園)~(知恩院)~専念寺~[以後、山コースと合流]平安神宮・応天門~黒谷・金戒光明寺~岡崎・善正寺~花折断層崖~京阪・神宮丸太町駅 [約10km]

【コース図:国土地理院発行1:25000「京都東北部」・「京都東南部」使用(図上の左クリックにより拡大)】

25000分の1東山091115コース

豊國神社(とよくにじんじゃ)

・豊臣秀吉を神として(「人」を神として)祀る神社です。秀吉死去の翌・慶長4年(1599)、遺体が遺命により阿弥陀峰・山頂に埋葬され、その麓に「方広寺」の鎮守社として廟所が建立されたのに始まり、仮殿は同年4月16日造立、同4月17日後陽成天皇から「正一位」の神階と「豊国大明神」の神号が贈られ鎮座祭が行われました。元和元年(1615)に豊臣宗家が滅亡すると、徳川幕府により神号を廃し、(妙法院により)社領は没収、社殿は破却、神体は新日吉神社にひそかに移し祀られました。

・明治元年、明治天皇が大阪に行幸したとき、豊臣秀吉は天下を統一しながら「幕府」は作らなかった尊皇の功臣であるとして、豊国神社の再興を布告しました。同6年、別格官幣社に列格し、明治13年、「方廣寺」大仏殿跡地の現在地に社殿が完成し遷座しました。

唐門_豊国神社【豊國神社・唐門】

唐門国宝で、西本願寺唐門(通称日暮の門)とほぼ同様式です。再興の際,南禅寺の塔頭「金地院」から移築さましたが、それ以前は,もともと豊国神社,二条城,伏見城の城門であった等々の諸説がありますが、現在,伏見城城門説が有力です。

耳塚豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役・1592~98年:朝鮮史では「壬辰・丁酉の倭乱」)時に、討ち取った朝鮮兵・明國兵の耳や鼻を削ぎ、持ち帰ったものを葬った塚で、昭和44年、「方広寺石塁および石塔」として国史跡に指定されています。当初は「鼻塚」と呼ばれていましたが、林羅山がその著書『豊臣秀吉譜』の中で、鼻そぎでは野蛮だといい、「耳塚」と書いて以降、「耳塚」という呼称が広まりました。

・慶長2年(1597)に築造され、同年9月に施餓鬼供養が行われ、秀吉の意向に添って相国寺住持・西笑承兌が行ったもので、京都五山の僧を集めて行われました。周囲の石柵は、大正4年に歌舞伎役者ら当時の著名芸人達の寄付によって建立され、発起人は京都の侠客「伏見の勇山」と伝わります。

*当時、戦功の証として、敵の高級将校は死体の首(漢語では頭のこと)をとって検分しましたが、一揆(兵農分離前の農民軍)や足軽など身分の低いものは鼻(耳)でその数を証しました(これをしないのを「打捨」)。運搬中に腐敗するのを防ぐために、塩漬、酒漬にして持ち帰りました。「検分」が終われば戦没者として供養し、その霊の災禍を防ぐのが古来よりの日本の慣習で、丁重に供養されました。

方廣寺     (天台宗)

・豊国神社の地続きにあり、秀吉が諸侯に築造を命じた「大佛殿」を擁した寺で、大仏とともに地震,火災,徳川家による解体等に見舞われました。現在,「大佛殿」を偲ばせるものは少なく,鐘楼のみのようです。表通りの塀と思われる辺りにその痕跡の巨大な石組みの塀が遺存しており、「鐘楼」に吊された鐘には,「国家安康」「君臣豊楽」の文字が白ペンキの枠で囲まれています。旧「大佛」は高さ6丈3尺(奈良大仏:5丈3尺)で、文禄4年(1595)に完成しましたが、翌年の伏見大地震で崩壊しました。秀頼が二度再建しましたが、寛政10年(1798)に落雷で焼失し、天保14年(1843)に寄進された木造半身大仏も昭和48年焼失しました。

國家安康君臣豊楽Ⅱ方広寺梵鐘【「國家安康」・「君臣豊樂」:方廣寺梵鐘】

◇清韓文英(文英清韓):元和7年(1621)没[元和2年・駿府に移され獄死説もある]。臨済宗の僧で、伊勢国出身、俗名は中尾重忠。諱は清韓、「文英」は字、号は不放子。秀吉に重用され出家後、「文禄の役」では加藤清正に従い、朝鮮半島に渡りました。慶長5年(1600)に東福寺長老となり、その後「南禅寺長老」となりました。

・当時、漢詩文に秀で「洛陽無双の智者」と言われていて、五山十刹の僧には妬む者も多くいましたが、慶長19年(1614)に片桐且元に命じられて、方広寺大佛殿の再建工事において梵鐘の銘文を起草しました。「この銘文に不吉な語句がある」と徳川家康が因縁をつけ、大佛開眼供養の中止を求めました(方廣寺鐘銘事件)。同年8月には且元に同行して駿府へ弁明に向かい、五山僧からも家康からの意見書下問に対して非難の言ばかりが提出されました。事態は鐘銘問題から徳川と豊臣家との対立に発展し、「大坂の陣」の遠因ともなりました。文英も連座し、南禅寺から追放され、住坊の天得院は一時廃絶の憂き目にあいました。加藤清正との関係で分かるように、豊臣氏とのつながりが深く、同じ南禅寺金地院住僧で徳川家康の顧問であった金地院崇伝と政治的に対立したため追放された説もあります。蟄居中に林羅山と知り合い、のち羅山の取りなしなどにより許されました。梵鐘は大佛殿跡地に放置されていましたが、鐘楼が明治17年に再建されました。問題にされた句は次のようです:

□「右僕射源朝臣」⇒”源朝臣(家康)を射る”、

□「君臣豊楽子孫殷昌」⇒”豊臣を君として子孫の殷昌を楽しむ”

□「国家安康」⇒”名を引き裂いて家康を呪った”

六波羅蜜寺

・天暦5年(951)に醍醐天皇第二皇子光勝空也により開創された西国第十七番札所です。

<縁起>当時京都に流行した悪疫退散のため、空也自ら十一面観音像を刻み、佛を車に安置して市中を曵き回り、青竹を八葉の蓮片の如く割り茶を立て、中へ小梅干と結び昆布を入れ佛前に献じた茶を病者に授け、歓喜踊躍しつつ念仏を唱えてついに病魔を鎮めた、とのことです(現在も「皇服茶」として伝わり、正月三日間授与)。

・現存の空也上人祈願文によると、応和3年(963)諸方の名僧600名を請じ、金字大般若経を浄写・転読し、夜には五大文字を灯じ大萬灯会を行って諸堂の落慶供養を盛大に営みました。上人没後、高弟の中信上人によりその規模を増大し、荘厳華麗な天台別院として栄えました。

・平安後期、平忠盛が当寺内の塔頭に軍勢を止めてより、清盛・重盛に至り、広大な境域内には権勢を誇る平家一門の邸館が栄え、その数5200余りに及んだそうです。寿永2年(1183)平家没落の時に兵火を受け、諸堂は類焼し、独り本堂のみ焼失を免れました。

・源平両氏の興亡、北条・足利と続く時代の兵火の中心ともなった当寺はその変遷も甚だしく、源頼朝、足利義詮による再興修復をはじめ火災に遭うたびに修復され、豊臣秀吉もまた大佛建立の際、本堂を補修し現在の向拝を附設し、寺領70石を安堵しました。徳川代々将軍も朱印を加えられました。

・現本堂は貞治2年(1363)の修営であり、明治以降荒廃していましたが、昭和44年、開創1,000年を記念して解体修理されました。 

六波羅蜜寺・十一面観音立像【六波羅蜜寺:本堂・十一面観音立像】

 建仁寺    (臨済宗建仁寺派大本山)

・建仁2年(1202)、将軍源頼家が寺域を寄進し、栄西禅師(ようさい:えいさいとも)を開山として宋国百丈山を模して建立されました。元号を寺号とし、山号を東山(とうざん)と称しました。創建時は真言・止観の二院を構え、天台・密教・禅の三宗兼学の道場として、当時の情勢に対応しました。
・寛元(1243-47)・康元(1256-57)年間の火災等で境内は荒廃し、正嘉元年(1258)に東福寺開山・円爾弁円(10世)が当山に入寺して後、境内を復興、禅も盛んとなりました。

・文永2年(1265)に宋の禅僧・建長寺開山・蘭渓道隆(11世)が入寺してからは禅の作法、規矩(禅院の規則)が厳格に行われ純粋に禅の道場となりました。

・室町幕府により中国の制度にならった「京都五山」の制定で、足利義満によりその第三位として厚い保護を受け、大いに栄えましたが、戦乱と幕府の衰退により再び荒廃しました。

・天正年間(1573~92)に秀吉による寺領寄進、安國寺恵瓊が慶長4年、安芸・安國寺から方丈を、東福寺から佛殿を移築し、再建が始まりました。その後、徳川幕府の保護のもと、堂塔が再建修築され制度などが整備されました。

・明治に入り政府の宗教政策等により臨済宗建仁寺派としての分派独立が成り、建仁寺はその大本山となりました。廃仏毀釈、神仏分離の法難により、塔頭の統廃合が行われ、余った土地を政府に上納、境内54,000坪(鴨川以東・五条以北)が半分近くに縮小され、現在に至っっています。

安國寺恵瓊墓(方丈)

・慶長5(1600)年の「関ヶ原合戦」で西軍に就いて敗れ、西本願寺に潜んでいるところを京都所司代・奥平信昌が逮捕し、大坂、堺を引き回し後、10月1日六条河原で斬首されました[法要命日]。「方丈」裏手に墓があります。

・天文10年(1541)に毛利一族に攻め滅ぼされた銀山城主・武田信重の子で、安芸安國寺に逃げ込み(4歳:秀吉と同年)、慶長3年、東福寺第224世住持に就任し、同年3月「南禅寺住持」の公貼を受けて、禅僧として最高位に達し、東福寺庫裏・通天橋・塔頭退耕庵、建仁寺方丈等を再建しました。

・師・竺雲恵心の外交僧の働きを見て、怨念を捨てて毛利氏外交僧(知行23,000石)になり、信長の9年先の「高ころびに仰のけにころばれ候」と予言し、秀吉の備中高松城水攻め講和の際の毛利側代表を務めました。

安國寺恵瓊首塚_建仁寺方丈② 【安國寺恵瓊墓:建仁寺方丈

 奥平信昌墓(元・定昌:久昌院)

・慶長5年より、秀吉が任命した前田玄以の後任として「京都所司代」を務め、天正3年(1575)の「長篠の戦」を500の城兵で徹底抗戦して維持、援軍を待ちました(妻は家康娘・亀姫)。

・安國寺恵瓊が病人を装って西本願寺から脱出するところを逮捕しました(当時、東福寺第224世住持)。

・父・貞能(さだよし・小幡宮崎城主)は秀吉に勧められて隠居後、伏見に住み、没して建仁寺に埋葬されました。

・慶長13年に山内に塔頭・久昌院を建立しました(三家に分かれて徳川幕府により計20余万石を領した)。

[●捕えられた方の墓と捕えた方の墓が同じ境内に祀られています]

安井金毘羅宮

崇徳院[白河法皇の指図により5歳で即位し、23歳で近衛天皇に譲位させられた]が亡くなって十数年後、(藤原鎌足が建立した)「藤寺」と称し、崇徳院が寵愛した阿波内侍が住持していた,この地に「崇徳院」の霊が現れました。大円法師の参拝時にも現れ、驚いて後白河法皇に報告したところ、法皇は勅命により、建治年間(1275~77)に「(安井)観勝寺光明院」を創建して崇徳院を祀りました。江戸時代になり、崇徳院の流刑地・讃岐より金毘羅宮を勧請して鎮守としました。

安井金毘羅宮本殿【安井金毘羅宮・本殿】

 高臺寺(鷲峰山高臺寿聖禅寺・当初、臨済宗、三江和尚により臨済宗建仁寺派に改宗)

・東山霊山(りょうぜん)山麓にあり、豊臣秀吉没後、その菩提を弔うために正室・北政所(ねね・出家して高臺院湖月尼と号す)が慶長11年(1606)に開創し、高台寺と号しました。造営に際して、徳川家康は当時の政治的配慮から多大の財政的援助を行なうことは徳川側に利ありと考え、東山・旧雲居寺(うんごじ) の跡地を用意して、先ず、実母朝日局の菩提寺・康徳寺(曹洞宗)を慶長10年に移し、次いで壮大な伽藍を慶長11年板倉勝重が普請奉行として酒井忠世・土井利勝も関与して建設(それまで三本木に居住)しました。河内国若江に知行16,000石を得ましたが、寺領は慶長17年家康から400石の寄進を受けて500石となっていました[表門は伏見城より加藤清正らによる移築説があります]。寛永元年(1624)に建仁寺の三江和尚を開山としてむかえ、臨済宗建仁寺派に改宗されました。

◇北政所は、天正16年(1588)に「従一位」に序せられ、慶長8年(1603)11月に後陽成天皇より「高臺院」の院号が下賜され、寛永元年(1624)に76才で没しました。なお、「大坂・冬の陣」前の慶長19年(1614)10月に大坂城に秀頼とともに籠城しようとしたが果たせませんでした。

・寛政元(1788)年以後、たびたびの火災により多くの堂宇を失い、現在残っているのは旧持仏堂の「開山堂」と「霊屋」、「傘亭」、「時雨亭」、「表門」、「観月台」等で国重要文化財に指定されています。

高臺寺霊屋②【高臺寺霊屋】

◇「霊屋」(たまや):(重要文化財)慶長10年(1605)に「開山堂」の東方に一段高くなった敷地に、宝形造檜皮葺の堂として建造されました。内部は中央の厨子に大随求菩薩(だいずいぐぼさつ)像を安置し、右の厨子には豊臣秀吉の坐像、左の厨子には正室・北政所の片膝立の木像が安置されています。北政所は自身の像の約2メートル下に葬られています。明治2年の「社寺上知令」により、寺地95,000坪が15,000坪に削られました。

大谷祖廟(東大谷・武家墓地)

加藤嘉明(通称、孫六):「賎ヶ岳七本槍」(実際は9名)の一人で、その功により知行100石から3,000石に昇進し、後に、淡路志築15,000石で水軍の将となり、「関ヶ原合戦」後、伊予松山20万石となり、元和8(1622)年三代家光の「鎧着始め」儀式を執り行いました。寛永4(1627)年、會津40万石に倍増移封されて、同8年69歳で没しました。

・嫡男明成が「お家騒動」で40万石を返上しましたが、加藤家を惜しんで、石見吉永1万石、近江水口2万石、下野壬生2万石、最後に近江水口2万5千石で明治維新を迎えました。結果、墓地が定まらず、徳川家所縁の東太谷に祀られました。のち風水害で墓地が崩壊し、合葬されました。

専念寺   (東山二条西入ル西寺町通下ル)

加藤嘉明墓最初の法名は「松苑院殿拾遺道誉大禅定門」、法号は「三明院宣興」です。東大谷では「松光院殿」ですが、寛永8年(1631)に江戸で死去。

[以後、合流後コース]

平安神宮

明治28年(1895)に建都1100年を記念して創建され、祭神は桓武天皇です。建物は平安京朝堂院を8分の5の大きさで再現し、大鳥居は昭和4年設置され、コンクリート・鉄骨造の明神鳥居で、幅18m、高さ24mあります。

金戒光明寺   (こんかいこうみょうじ・浄土宗大本山・紫雲山)

知恩院、知恩寺、清浄華院(しょうじょうけいん)とともに浄土宗四本山の一つで、承安5年(1175)、法然上人(源空)が比叡山の「黒谷」<修行地>を下り、承安5(1175)年、師の叡空から此地を譲られて草庵を結んだのが始まりです。

*「金戒」:8世・運空が後光厳天皇に「円頓戒」(天台宗の大乗菩薩戒)を授けたことにより天皇から賜りました。

・奈良時代の学者・吉備真備が遣唐使として帰国の際、船が遭難しそうになり「南無観世音菩薩」と唱えたところ、たちまちその難を免れることができましたが、その時に吉備真備は唐より持ち帰った栴檀香木で行基菩薩に頼み観音を刻んでもらいましたので、この観音を『吉備観音』と呼ばれました。元は吉田中山の「吉田寺」に奉安されましたが、江戸時代の寛文8年(1668)に吉田寺が廃寺となり、徳川幕府の命により、「金戒光明寺」へ移されました。

・聖武天皇が勅願所と定めてからは歴代天皇の信仰が篤く、殊に宮中に於ける懐妊の節には勅使を立てて安産と肥立開運の祈願をされ「安産守護」の本尊として知られてきました。平安末期、後白河法皇が西国三十三所巡礼に代わるものとした洛陽三十三所観音霊場の六番となっています。

・江戸中期以降、民間信仰では、吉備公が二度遣唐使として中国に渡り観音の守護により無事帰国したことより「道中守護」「交通安全」と「諸願成就」の御利益があると信仰を集めてきました。また、新選組」発祥の地で、近藤・芹沢らは黒谷で京都守護職・松平容保に拝謁がかない、新選組が誕生しました(最初の屯所)。

田中吉政墓:「前筑州都督橘朝臣正議吉政 円光院殿崇厳道越居士 慶長十四巳酉二月十八日」

・近江高島生まれで、初め宮部継潤、後に豊臣秀次に傅役(養育係)、家老として仕え、「関ヶ原の戦」後、石田三成を木之本・古橋村で追捕し、大津滞在の家康陣所まで護送した功により、三河岡崎10万石より筑後柳川三十二万五千石に加増されました。慶長14年(1609)参勤交代の途上、伏見の旅籠にて62歳で急逝しました。

善正寺 (日蓮宗本圀寺派・妙慧山みょうえさん)  

吉田山西麓のなだらかな傾斜地にあり、「東山檀林」(僧侶の学問所[寛永元年(1624)創建、明治初年廃檀]の旧跡で、かつて東西60間、南北75間、5100坪の敷地でした。門柱には、左「豊臣秀次公 村雲門跡瑞龍寺 御墓所」、右「妙慧山善正寺」の札が掲げられ、開基は日鋭上人、本願は秀次母・瑞龍院日秀です。

秀次公御霊屋_善正寺 【豊臣秀次公・御霊屋】

 *豊臣秀次:秀吉の実姉・とも(智)と三好吉房の長男で、三好信吉と名乗り、天正10(1582)の「山崎の合戦」に初参戦しました。天正12年(1584)の「小牧の役」で逆襲に逢い逃げ帰ったことで秀吉の叱責をうけましが、その後は戦功をあげ、翌天正13年に近江八幡城主(18万石)となりました。秀吉の出世と共に、秀次も中将から参議、内大臣と昇進しましたが、天正19年(1592)、秀吉の嫡男・鶴松(生母・側室淀君)が亡くなった後、秀吉は姉の子・秀次を養子とし、豊臣家二世を継がせて関白職を譲るとともに、「聚楽第」を与えました。文禄2年(1593)、淀君に秀頼が生まれると、秀吉は次第に秀次を疎んじはじめ(石田三成らの策略もあり)「謀反」の疑いをかけられました。秀次は伏見城にて弁明するも聞き入れられず、文禄4年(1595)、高野山へ追放され、切腹を命じられ、文禄4年(1595)715日に自刃し、鴨の河原に葬られました。

・文禄5年(1596)[慶長2(1597)年とも]はじめ、とも(智)は、秀次の菩提を弔うため嵯峨野に庵を設け近くの二尊院の僧に供養を依頼しましたが、これが善正寺の始まで、自らは日頃から帰依していた日蓮宗本圀寺の日禎(にちじょう)上人に得度を受け瑞龍院妙慧日秀と名乗りました。慶長5年(1600)、日蓮宗の日鋭上人を開山に迎え現在地に堂宇を建立して秀次の法名から善正寺と号し遷しました。墓地に秀次公供養墓(五輪塔)があり、廟堂横には秀次の妻子ら一族の供塔、秀次の母・瑞龍院(妙慧)日秀の墓があります。

・本堂には日秀が慶長2年(1597)に秀次を偲んで仏師に彫らせた秀次木像と、日秀自身が慶長6年に彫らせた自像が安置されています。

*「瑞龍寺」:(堀川今出川下ル)後陽成天皇より下賜された村雲に妙慧日秀が建立。「瑞泉寺」:(三条木屋町)秀次一族の菩提を弔うために、豪商・角倉了以が慶長16年に建立。

花折断層崖

・「花折断層」は、滋賀県水越峠付近から京都市左京区吉田山南方付近まで、全長50km以上に達する大規模な「右ずれ活断層」で、その南部は大原、八瀬を経て京都盆地東縁へ連続しています。特に、比叡山地西縁の修学院、白川付近では白川花崗岩類から構成される西向きの断層崖を形成していますが、この東側隆起の断層崖は比高200~300mに達し、直線状の急崖と三角末端面を発達させています。修学院・一乗寺では完新世の扇状地面を1m程度上下に変位させ、梅谷や寺谷の河谷には約100mに達する右ずれオフセットが生じていて、この変位地形は第四紀後期における花折断層の活発な活動の結果です。地質調査所による薬品農場でのトレンチ調査では、約1500~2500年及び約7000~8000年前に断層運動が生じたと解釈されましたが、この断層崖は京都市街を囲む緑の障壁の一部をなし、重要な自然景観を構成していて、一部で宅地開発による改変破壊がみられます。断層近辺には赤山禅院、修学院離宮、曼殊院、詩仙堂などの史跡や寺院が並んでいます。

花折断層_金戒光明寺②【花折断層・吉田山と金戒光明寺(図上の左クリックにより拡大)

吉田山

南北800m、東西300mの細長い孤立丘で、周囲より約50~60m程度突出していて、丘は南方へ傾斜し、最高点は北端部の125mで、今出川通に面して急崖をなして終わっています。

・西縁を「花折断層」が走っており、この断層運動に伴って隆起してきたと考えられています。「花折断層」は右ずれ成分の卓越する活断層で、その南端部に位置する吉田山は横ずれに伴う物質の移動と圧縮応力によって形成されたと推定されており、「右ずれ断層」南端の右側には横ずれ移動による物質過剰が生じ、圧縮による膨らみが生じる傾向が強い、と考えられています。数十万年間にわたる「花折断層」の右ずれ運動によって形成されたとみられ、末端膨隆丘(ターミナル・バルジ)ともいわれます。風化された「大阪層群」上部の砂礫層から構成されていて、隆起が第四紀中期以降に生じています。北端・今出川通のトレンチ調査で、「花折断層」が縄文時代後期の地層を切って活動したことが確認されています。

  [参考文献]

1.水本 邦彦:街道の日本史32・「京都と京街道」、吉川弘文館、2002

2.槇野  修:(山折哲雄監修)「京都の寺社505を歩く」、PHP研究所、2007

3.津田 三郎:豊臣一族ゆかりの寺社をゆく・「大綱秀吉と豊臣一族」、新人物往来社、2008

4.津田 三郎:京都・戦国武将の寺をゆく、サンライズ出版、20072009. 

5.小和田哲男:「北政所と淀殿:豊臣家を守ろうとした妻たち」、吉川弘文館2009

【実施:2009年11月15日、案内・編集:宮﨑信隆(副会長)】

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